2013年12月01日
「公園と犬と幻の飛行場」【高円寺 となりの歴史散歩 第二回】
暖かくなると外で過ごすのが楽しい。公園でまったり、なんて贅沢な時間の過ごし方も素敵だ。馬橋公園は高円寺の端にある、高円寺で一番大きな公園だ。今回はこの公園にまつわる歴史を少しだけ紐解いてみたい。
(この記事は、2012年6月発行の高円寺タウンマガジンSHOW-OFF 47号に掲載した記事に編集を加えたものです)
馬橋公園。高円寺北4丁目35-5
馬橋公園
馬橋(まばし)公園をご存知だろうか。高円寺駅の北西に位置する、広い公園だ。
園内はふんだんに緑化され、野球場として使用できる広場もあり、子どもや家族連れで賑わっている。
この公園のある場所には、かつて気象庁の気象研究所があった。
昭和55(1980)年、気象研究所が筑波へ移転したため、跡地を杉並区が防災空き地を兼ねた公園として整備し、昭和60(1985)年に馬橋公園として開園した。
気象研究所本体は移転したが、気象庁の職員が使用する気象庁高円寺住宅はまだ馬橋公園の隣に残っており、現在も使用されている。
陸軍気象部と気象神社
気象研究所は、第二次世界大戦終戦前は、戦争に必要な、気象の測定、研究、教育などを行う大日本帝国陸軍気象部の施設であった。
この陸軍気象部敷地内に作られたのが気象神社である。
戦後の神道指令(政教分離のため、国家神道を廃止した)で撤去される予定であったが、調査漏れにより残存し、昭和23(1948)年に氷川神社境内に移設された。
この気象神社、日本で唯一、天気の神様を祀るというだけでなく、何故かWebカメラによるリアルタイム中継をやっていたり、萌えキャラがいたりと、なかなか不思議な神社である(気象神社Webサイト参照)。
氷川神社境内にある気象神社。
高円寺に軍の施設が作られた理由
実際に馬橋公園を歩いてみるとわかるが、かなりの広大な土地である。
現在公園となっているのは陸軍気象部があった土地の1/3で、現在の秀和レジデンス(マンション)、NTTのビル、馬橋小学校の土地もかつては含まれていた。
では、何故高円寺のこの場所に軍の施設が作られたのか。その理由は江戸時代へと遡る。
中野御犬小屋
元禄8(1695)年、将軍徳川綱吉により「生類憐れみの令」が定められた。
これにより犬を殺すことが禁じられたため、江戸市中に犬が増えすぎ、その対処として公設の「御犬小屋」が作られた。
中野御犬小屋もそのひとつである。
現在の中野駅前周辺(中野区役所のあたり)から高円寺北一丁目周辺にまたがる広大な土地で、30万坪にも及んだという。だが綱吉の死後、生類憐れみの令の廃止と共に中野御犬小屋も廃止された。
その後長らくこの土地は放置されたが、明治22(1889)年に帝国陸軍がこの土地に陸軍鉄道隊を設置。
またこの土地から始まり天沼一丁目(阿佐ヶ谷と荻窪の中間あたり)までに渡る、幅約30〜50mの土地を買い上げて軍用地とし、鉄道を引いたり、機関車を走らせたりといった訓練に使用した。
中野御犬小屋があった場所。今は公園(中野セントラルパーク)として整備されている。
中野区役所の脇に、これにちなんだ犬の像もある。
中野飛行場計画
第一次世界大戦により、飛行機の重要性が認識され、大正8(1919)年、この細長い軍用地を拡張し、長さ2500mの滑走路にする計画が立てられ、土地の買い上げが開始された。
しかし、滑走路建設予定地に民家が多かったこと、滑走路としては狭かったことなどから、この計画は中断し、土地も放置されることとなった。飛行場の計画はその後、立川に移り、大正12(1922)年、立川飛行場が開設された(現在は陸上自衛隊が運営している)。現在の馬橋公園の土地は、この時の格納庫建設予定地として用意されたものであった。
大正12(1923)年、鉄道隊は移転し、陸軍電信隊の電線架設演習場として使用されるようになった。格納庫予定地として放置されていた土地に昭和元(1926)年、陸軍通信学校が開設、昭和14(1939)年、通信学校が神奈川へ移転すると、そのあとに設置されたのが気象研究所の前身、陸軍気象部である。
軍用地として使用されていた細長い土地には、戦後、戦争による罹災者や、外国からの引揚者が居住するようになり、昭和25(1950)年〜27(1952)年に居住者に払い下げられた。
土地には土地の歴史あり
江戸時代から戦争を経て、現代まで。公園ひとつにも数々の歴史がある。そう考えただけで、いつもの街歩きも、ずっと楽しいものになる。みなさんも是非、街の歴史に目を向けてみてください。
参考資料
杉並風土記(中) 杉並郷土史会発行 森泰樹著
東京時層地図(iPhoneアプリ) 他