2013年12月16日

「鷹狩、大騒動。」【高円寺 となりの歴史散歩 第三回】

「鷹狩、大騒動。」【高円寺 となりの歴史散歩 第三回】

高円寺というお寺がある。徳川家光が鷹狩の際にこのお寺に立ち寄ったことから有名になり、その地域一帯の名前にまでなった、ということは、一度くらいは耳にしたことがあるはず。だがこの話、実はいい話ばかりではないようで。

(この記事は、2012年10月発行の高円寺タウンマガジンSHOW-OFF 48号に掲載した記事に編集を加えたものです)

高円寺というお寺

宿鳳山高円寺は、駅から7〜8分程歩いたところにある、曹洞宗の寺院である。

高円寺
宿鳳山高円寺。高円寺南4丁目18-11


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寛永年間(1624〜1643)に、三代将軍家光が鷹狩の途中、この寺院にて度々休憩し、境内に仮御殿が作られた。
それからこの寺の名前が有名になり、それまでは小沢村と呼ばれていた村を、高円寺村と呼ぶようになったという。

境内にある稲荷

境内にあるこの稲荷の裏に、家光が休憩した御殿の跡があるそうだ。

鷹狩とは

飼育した鷹に獲物(野鳥など)をとらせる鷹狩。
その歴史は古く、日本書紀にも記述が見られる。
天皇、貴族、大名などの権力者たちによって行われてきた遊興である。

徳川家康が鷹狩を好んだため、徳川幕府に継承され、のちに制度化した。
鷹狩をする鷹場や捉えた獲物の贈答は、徳川幕府において格式や主従関係を象徴するものとなったのである。

鷹狩の制度化

寛永二十年(1643)三代将軍家光が中野・杉並・練馬・武蔵野方面の多数の村を御鷹場(鷹狩をする場所)に指定し、これを管理するために御鳥見役(おとりみやく)を設置した。
高円寺村にも御鳥見役宅が設置される。現在の高円寺南5-18付近にあったという。
将軍が鷹狩にやってくる際には、各村々に道や橋の整備、荷物の運搬を担当する人員の手配が命ぜられた。
その上、御鷹場禁制や御鷹場法度で、村民の日常生活、農作業はかなりの制限を受けた。

村人の生活の制限

野鳥を追い払ってはいけない、木を許可無く切ったり植えたりしてはいけない、家を無断で新築してはいけない、花火を上げてはいけない、許可無く寺院の鐘を鳴らしてはいけない、など、農民の生活より獲物となる野鳥の保護を重視し、これを監視するため、鳥見役人が村々を巡回した。
鳥見役人は権力をかさに威張り散らし、農民に難癖をつけたり賄賂を取ったりしたため、農民はもちろん、代官所からも忌み嫌われていたという。
そのため、徳川幕府が倒れた時には打ち壊しにあったといわれており、鳥見役宅跡や文書などは一切残っていない。

鷹イメージ

鷹(イメージ写真です)

鷹狩のやらせ

いくら野鳥を保護したところで、将軍は大勢の家来を引き連れてやってくるので、ひと気を恐れて獲物の野鳥たちは飛び去ってしまう。
獲物が不足したため、幕末頃には、鷹狩においてやらせが横行したという。
まず鳥見役宅でうずらを買っておき、鷹狩の朝に村人たちにこのうずらを配った。
村人たちはこのうずらを適当な場所で放ち、飛び上がるうずらを将軍の鷹が捕らえる、といったことが行われたらしい。

将軍はうずらを捕らえて満足して城に帰り、翌日御鳥見役人は白に呼び出され、お褒めの言葉と金一封を賜ったという。
慶応三年(1867)、御鷹場が廃止され、高円寺御鳥見役宅も閉鎖された。

時の最高権力者である将軍様がやって来る。その時村人たちは心の底では大層迷惑だったに違いない。
しかし当の将軍は獲物を得てホクホクして帰る。
そのあたりの温度差が面白いと思いませんか。

参考資料
杉並風土記(中) 杉並郷土史会発行 森泰樹著
鷹と将軍 徳川社会の贈答システム 講談社選書メチエ 岡崎寛徳著
杉並郷土博物館特別展 将軍家の鷹場と杉並 展示目録 他

高円寺

高円寺の名前の裏には、こんな大騒動があったそうです。